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NIFTYの遺産(64)~米沢上杉家重臣・千坂家

これは98年の4月に投稿したものです。

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みなさん、こんにちは。

 交代寄合を調べて「姓氏と家紋 第35号」を見ていたら、米沢上杉家の重臣と
して有名な千坂家の系図が出ていましたので、以下にアップします。
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 千坂家の祖は犬懸上杉家の朝宗の側室の子として生まれた高春です。つまり、上杉禅秀の乱を起こした上杉禅秀こと氏憲の異母兄弟です。高春は関東管領家の家老職を務め、氏憲が管領を辞し山内上杉家の憲基が管領となったのちは憲基に仕えました。以後、千坂氏は代々関東管領家の家老職を務め、景長の時に、越後守護家から関東管領家に養子に入った顕定に越後村松領主を命ぜられて関東から越後に移りました。
 越後守護代であった長尾為景が実権を握ると景長は以後為景の麾下に属し、その子景親は謙信・景勝に仕えました。景親のあとは嫡男の景明が継ぐことになっていたので、次男の長朝は二千石を与えられて分家していました。しかし景明は病身で家督を継がぬまま景親の死の八ヶ月前に世を去っていたので、嗣子がなく断絶するところを直江兼続が奔走し、千坂の一族の満願寺仙右衛門こと伊豆守高信を取り立て家督を継がせました。以後千坂家は、高信の系統と長朝の系統に分かれ、現在に至っています。
 ところで、千坂家というと忠臣蔵の「千坂兵部」がよく知られています。
 この兵部という通称を名乗ったものは高治・高房・尚親・安親の四人ですが、高房は元禄11年(1698)年に兵部から太郎左衛門に通称を改めており、殿中刃傷事件の一年前の元禄13年(1700)に亡くなっています。またその次の尚親は、その当時は与市を名乗っており、兵部と名乗るのは享保7年(1722)年のことだそうです。
 ですから《殿中刃傷事件》から《吉良邸討ち入り》の間の千坂家の当主は与市尚親で、その頃の江戸家老は色部又四郎安長だったそうですから、あの千坂兵部像は後世の作家等が作り上げたもののようです。

《参考資料》
 『姓氏と家紋 第35号』 日本家系図学会 1980年8月発行
  「竹丸飛雀と共に ―藤原姓千坂氏の譜―」(千坂精一)

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