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NIFTYの遺産(71)~吉良上野介の子孫(2)

みなさん、こんにちは。

 今回は吉良上野介の娘の嫁ぎ先、堂上公家・清華家の一つ「大炊御門家」です。
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 ちなみに、大炊御門経音の子隆煕の養子先・鷲尾家は、堂上公家羽林家です。

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NIFTYの遺産(70)~吉良上野介の子孫(1)

続いては久しぶりのシリーズもので、98年12月の投稿です。別の会議室で、吉良上野介と上杉鷹山の関係は!?という話題が出たので、ついでに吉良上野介の子孫を全て調べてしまったというものです(^^;)

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みなさん、こんにちは。

 MES10で○○さんに「追放」されてしまいましたので、吉良上野介ネタをこちらに持ってきました(^^;)
 本当は、吉良上野介と上杉鷹山の関係は? というネタなんですが、せっかくですから、「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介の子孫をすべて調べてみようと思います。(先祖については、「高家シリーズ」で取り上げる予定...ッテイツニナルコトカ(^^;))
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NIFTYの遺産(69)~小倉氏

続いて98年11月の投稿です。清和源氏満季流小倉氏の家系についての質問があったので、それに答えたものです。

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○○さん、こんにちは。

>>たので新しい発見でした。清和源氏の源満季の子孫の様ですが、小倉氏の
>>詳しい系図や記事を御存じの方がおられましたら教えて下さい。

 『姓氏家系大辞典』では「小椋」の項に載っていました。『尊卑分脈』による
系図が載っていましたがそれによると次の通りです。
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NIFTYの遺産(68)~土佐坂本氏

みなさん、こんにちは。

 先日、MES5で北海道と土佐の坂本一族との関わりを書き込みましたので、関連として坂本一族の系図をアップします。
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NIFTYの遺産(67)~横田高松と準松

続いて98年10月の投稿。武田信玄の家臣・「横田高松」と田沼時代の御側御用取次・「横田準松」の関係についての回答です。

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○○さん、こんにちは。

>> 余談ですが、横田準松は、武田信玄の家臣の横田高松と関係があるのでしょう
>>か?(と、系図部屋ネタをふる…(笑))

 ネタフリありがとうございます(^^) それでは早速『寛政譜』で確認を...

 結局のところ、横田準松は横田高松の子孫になります。では、簡単に系図をば。
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 というわけで、横田準松(のりとし)は、分家した隆松の子孫栄松の三男として生まれ、本家清松の養子となって家督を継いでいます。養父の実子以松にその跡を継がせていますが、彼自身の子どもは四男四女三養女いて、早世した一男をのぞく三男は他家に養子に出ています。
 綱松は原虎胤の実子ですし、述松の弟綱松は小幡景憲の養子になっていますし、述松の母は山県昌景の娘ですので、この横田家には武田旧臣の血がかなり濃く流れているようです。

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ついでに分家・横田隆松家の系図も(^^;)
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NIFTYの遺産(66)~今井兼平と樋口兼光の子孫?

これは98年の5月に投稿したもので、以下のような質問があったので、調べたものです。

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○○ さん、こんにちは。

>> 安土桃山時代の今井宗久や直江兼続は木曾義仲の部将だった、今井兼平と樋口兼光
>>の子孫なんでしょうか?

 直江兼続は樋口兼光の子孫と言われています。2年ぐらい前に戦国部屋でも同じような話が出たので過去ログを見てみたら、ありました(^^) 『古代氏族系譜集成』の中原氏の系図の中に樋口氏の系図が出ていました。
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 注釈によると、兼季、光信以下の系図は『直江兼続とその時代』『直江津町史』に収める樋口氏系図によるそうです。

 次に今井宗久の先祖ですが、『寛政重修諸家譜』によりますと、「寛永系図、清和源氏義光流今井家の次に収め、今井四郎兼平の末流なりと記し、今の呈譜にはには宇多源氏にして佐々木の庶流なりといふ。」と書いてあります。しかし、そのどちらも「うたがふべし」としていますので、どこまで信用できるものなのかはわかりません。
 『寛政譜』によると、宗久以下は次のように続き、江戸幕臣として続いています。
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NIFTYの遺産(65)~本多重次家のその後

次も98年4月の投稿で、本多作左衛門重次の子孫についてです。

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○○さん、こんにちは。

>> 徳川家康の重臣であった本多作左衛門重次の子孫の系図を教えて下さい。
>>家康の次男秀野康に従って越前福井藩の家老になったと聞いたのですが
>>宜しくお願いします。

 福井藩の家老となったのは、重次の甥富正の子孫で、重次の子孫は五代重益が
失政により除封され、その子孫は二千石の旗本となりました。系図は以下の通り
です。(女子は省略しました)
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参考図書
 ・『寛政重修諸家譜 第十一』 続群書類従完成会 1965年
 ・『江戸幕藩大名家事典 中巻』 小川恭一/編著 原書房 1992年

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NIFTYの遺産(64)~米沢上杉家重臣・千坂家

これは98年の4月に投稿したものです。

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みなさん、こんにちは。

 交代寄合を調べて「姓氏と家紋 第35号」を見ていたら、米沢上杉家の重臣と
して有名な千坂家の系図が出ていましたので、以下にアップします。
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 千坂家の祖は犬懸上杉家の朝宗の側室の子として生まれた高春です。つまり、上杉禅秀の乱を起こした上杉禅秀こと氏憲の異母兄弟です。高春は関東管領家の家老職を務め、氏憲が管領を辞し山内上杉家の憲基が管領となったのちは憲基に仕えました。以後、千坂氏は代々関東管領家の家老職を務め、景長の時に、越後守護家から関東管領家に養子に入った顕定に越後村松領主を命ぜられて関東から越後に移りました。
 越後守護代であった長尾為景が実権を握ると景長は以後為景の麾下に属し、その子景親は謙信・景勝に仕えました。景親のあとは嫡男の景明が継ぐことになっていたので、次男の長朝は二千石を与えられて分家していました。しかし景明は病身で家督を継がぬまま景親の死の八ヶ月前に世を去っていたので、嗣子がなく断絶するところを直江兼続が奔走し、千坂の一族の満願寺仙右衛門こと伊豆守高信を取り立て家督を継がせました。以後千坂家は、高信の系統と長朝の系統に分かれ、現在に至っています。
 ところで、千坂家というと忠臣蔵の「千坂兵部」がよく知られています。
 この兵部という通称を名乗ったものは高治・高房・尚親・安親の四人ですが、高房は元禄11年(1698)年に兵部から太郎左衛門に通称を改めており、殿中刃傷事件の一年前の元禄13年(1700)に亡くなっています。またその次の尚親は、その当時は与市を名乗っており、兵部と名乗るのは享保7年(1722)年のことだそうです。
 ですから《殿中刃傷事件》から《吉良邸討ち入り》の間の千坂家の当主は与市尚親で、その頃の江戸家老は色部又四郎安長だったそうですから、あの千坂兵部像は後世の作家等が作り上げたもののようです。

《参考資料》
 『姓氏と家紋 第35号』 日本家系図学会 1980年8月発行
  「竹丸飛雀と共に ―藤原姓千坂氏の譜―」(千坂精一)

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NIFTYの遺産(63)~新田堀江氏

これも98年の2月に投稿したもので、新田氏の末裔新田堀江氏についてです。

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みなさん、こんにちは。

 先日来、「紀伊国屋 BOOK WEB」で歴史・系図関係の文献を検索しては注文してみたんですが、古い物が多いせいか「品切れで入手できませんでした」とか「不扱い商品につき入手できませんでした」と言われることが多かったんです(; ;)
 ところが先日、奥富敬之さんの『清和源氏新田堀江家の歴史』(高文堂新書)がヒットしたのでダメもとで注文したら、今日到着しました(^^)
 20年以上前の本なのに、まだ流通しているとはビックリです。
 以下に同書をもとに新田堀江家の系図をアップします。
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 新田貞方が応永16年(1409)に鎌倉府の侍所別当であった千葉介兼胤の手の者によって討たれたのち、貞方の子新十郎貞政は当時岩松家の所領だった武蔵国稲毛荘に逃げ込みました。なぜ「堀江」を称したのかということについては、同書は母方の姓を名乗ったとし、貞政の母は義宗の兄義顕の子孫である越前堀江氏の出ではないかと推測しています。
 その後、2代政貞の代に本貫地である上野に戻り、四代政貞の代から後北条氏に仕えたようです。6代政邦は、病身を理由に致仕し相模国中郡西富岡村(神奈川県伊勢原市)に土着し、江戸期に入ると代々の当主は「仁左衛門」を称し、西富岡村の名主を務めていました。15代政起の頃には苗字御免となり、18代政徳の時には苗字帯刀御免となっています。
 明治維新となり新郡区政が実施されると、政徳は西富岡村の戸長となり、19代政治も戸長を勤めました。20代政仁は初め教職につきましたがのち医師となり、21代政邦、22代政伸も医師となっています。

 ところで、同書に昭和50年に福井市藤島神社において新田義貞記念式典が行われたときに、招待三家として鎌倉の新田岩松家、石川県の喜多家、そしてこの堀江宗家が招聘されたと書いてあるんですが、鎌倉の新田岩松家というのは貞方の弟岩松満純の子孫だと思うのですが、石川県の喜多家っていうのはどういう系統なんでしょう? 文脈から言っても新田義貞の末裔だと思うのですが... ご存じの方いません?

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NIFTYの遺産(62)~笹舟の記 葦名氏

これも98年の2月に投稿したもので、戦国大名葦名氏についてです。

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みなさん、こんにちは。

 先日、札幌の本屋で『笹舟の記 戦国大名葦名氏の興亡』(本の森)という本を見つけました。著者は切田未良という90歳の女性歴史研究家で、自分の旧姓「針生」に興味を持ち、葦名氏、及びその副家・針生氏(仙台藩士)について調べこの本を書き上げたとのことです。
 この針生氏については以前も話題に上がったことがありますが、葦名氏第十四代盛滋の子小太郎盛幸を祖とします。父盛滋は子がなかったので弟盛舜に家督を譲り隠居し針生庄を隠居料としましたが、その後盛幸が生まれたため、針生庄を領し「針生氏」を称し「葦名家副家」と為しました。孫の盛信の時に伊達家に仕え、のち「準一家」に列しましたが、盛信の曾孫盛定の時に出羽角館にあって佐竹家に仕えていた葦名宗家が断絶したため、旧姓葦名に復したそうです。
 では掲載されている系図を以下に掲げます。
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 まあ、系図自体は以前私や○○さんがアップしたものより若干詳しい程度ですが、葦名盛重(義広)の子孫がわかったのが収穫でした。

 ただし、この著者の切田未良さんという方が専門の研究家でないからか、それとも出版社(仙台の「本の森」という会社)の誤植なのか、結構簡単な間違いが目に付きました。(今川氏実、上杉影虎など名前の間違いがありました。) 話があちこちに飛ぶなど、文章もこなれていない気がしましたが、90歳にしてこんな著作に取り組むのには感心してしまいました。

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NIFTYの遺産(61)~赤穂藩森家の重臣・各務家

○○さん、こんにちは。

>>赤穂森家
>> 森宗兵衛○,     各務兵庫●,     森衛守●,
>> 森主税●,      森縫殿○,

 森家の重臣達について『森一族のすべて』(新人物往来社)に一部出ていたので紹介します。
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 初代元正は、森家の重臣として岩村城・長沼城の城代を務めています。2代元峯も森家の転封に従い美作に移り、美作高田城代を務めていますが、他の重臣二人と些細なことから死闘を演じ、責任を感じた元峯は自刃しています。
 5代利直の長男長生は重臣森采女三隆の養子を経て、藩主に就任、その弟政房も四代藩主に就任しています。
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 森主税家は津山藩三代藩主長武の養子長基に始まり、代々藩の重臣を務めました。幕末の赤穂藩家老森主税可彜は対立していた下級武士に討たれ、27歳で落命しました。彼には三人の女子がありましたが、他家に嫁いだので森主税家の家名は絶えました。(あやとたかの御子孫は現在でもいらっしゃるようです。)

 あとの森宗兵衛・森衛守・森縫殿ですが、森長可・長定(蘭丸)らの叔父可政の通称が宗兵衛で、宗兵衛及びその三男可春・四男正次・六男正信が津山藩初代藩主忠政に仕えてますのですので、森宗兵衛はその子孫でしょう。(三男可春の子孫でしょうか?)
 また赤穂藩第五代藩主忠洪の父は森縫殿正典ですので、彼の系統が森縫殿家でしょう。その諱に正の字が付いてますので正次の子孫でしょうか?
 あと一つ森衛守家も宗兵衛の子孫かもしれませんが、正信の子孫は森続之丞家として『森一族のすべて』にその系図が出ていますので、この系統ではないようです。
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NIFTYの遺産(60)~天童藩織田家の重臣・吉田家

○○さん、こんにちは。

>>高畠織田家
>> 宮城惣右衛門,    松原八兵衛,     吉田多膳○,

 札幌の古本屋で買った本の中に『天童物語 ―吉田大八―』(国書刊行会、山田野理夫)という幕末の天童藩織田家の家老吉田大八守隆を主人公とした歴史小説(全4巻)があるんですが、その中にこの吉田家の家系について述べた部分があります。
 それによりますと、この吉田家はその家譜では清和源氏で、尾張守護斯波氏の一族となっているようですが、確実とされるのは天文年間の吉田内記守氏からのようです。守氏は織田信長の父信秀仕えていたようです。
 守氏の子守治は信長、信雄に仕え、のち勝左衛門守綱と名乗り上州小幡に移った織田家の執政となったそうです。以後は、織田家の重臣として代々仕え、山形大弐事件の時の吉田玄蕃守胤、そして幕末の吉田大八守隆を出したわけです。
 同書の記述をもとに、系図化してみます。
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 吉田多膳は、吉田玄蕃守胤の従弟である多膳守易のことでしょうか。彼は織田家が高畠から天童に移る際の責任者だったようです。

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NIFTYの遺産(59)~津軽家の重臣・杉山家,大道寺家,山鹿家

では続きです。

 次は、いくつか面白い出自の家臣を見つけましたので紹介します。03a
 石田三成の子孫という杉山家です。この御子孫という方が戦国部屋にいらっしゃいませんでしたっけ?
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 旧会議室の頃に話題になった、後北條氏の重臣大道寺氏の子孫です。
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 あの山鹿素行の子孫です。津軽信政は素行門下となり、素行を召し抱えようとしましたが謝辞されたので、素行の養子(姉の子)八郎左衛門興信を召し抱えました。八郎左衛門は藩主の姓号を許され「津軽大学政実」と名乗り家老となりましたが、のち知行全てを没収され、更に解雇されました。嫡子の権之助高豊はのち帰参し、廃藩まで続いたようです。

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NIFTYの遺産(58)~津軽家の重臣・津軽姓二家

みなさん、こんにちは。

 『三百藩家臣人名事典』を見ていたら、またいくつか発見がありましたので、
紹介します。

 まずは、津軽姓の2家です。
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 『三百藩家臣人名事典』では、この系統は津軽氏一門筆頭の家系と書いてありますが、○○さんのリストに出てこないのはなぜなんでしょうね?
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 津軽多膳家は起伏の激しい家系です。多膳貞栄の代に家老となり、嫡子の永孚緝煕(えいふまさひろ)も家老となり「父子執政」となりましたが、多膳は藩政改革の失敗により家老を罷免され隠居、永孚も蟄居を命じられたため次男の俊吉(のち多膳貞升)が家督を継ぎました。
 多膳貞升も家老となり藩政改革を進めましたが、それに反発する笠原近江の巻き返しにより家老を罷免され永世蟄居という処分を受けました。しかし順徳が藩主を継ぐと蟄居を解かれ、家老に復帰し再び藩政改革を進めました。(津軽外記家は多膳貞栄の生家ということで載せました。)

 長くなりましたので、続きは別発言で。

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NIFTYの遺産(57)~津軽家の重臣・津軽家,喜多村家,渡辺家

これも同じく文化五年武鑑から弘前藩津軽家の重臣です。

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○○ さん、こんにちは。

>>津軽家
>> 津軽主水○,    喜多村監物●,     津軽頼母○,
>> 渡辺将監○,

 津軽家の重臣達は『三百藩家臣人名事典』に簡単にその系譜が載っていました。
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