NIFTYの遺産(56)~八戸南部家の重臣・中里家
みなさん、こんにちは。
八戸藩南部家の重臣ですが、『南部藩参考諸家系図』で調べてみました。です
が、下の中里家の本家らしき一族の系図は載っていましたが、新宮家と梶内家は
見つかりませんでした。
ということで中里家の系図をご紹介します。
>>八戸南部家(盛岡支藩)
>> 中里弥次右衛門○, 中里郷右衛門○, 新宮七郎右衛門,
>> 梶内金右衛門,
上を見ておわかりのように、中里家は八戸藩南部家と深い関わりのある家です。つまり、八戸藩初代の南部直房の母は中里嘉兵衛正吉の娘で、直房にとって中里家は外戚となるわけです。
上記の系図の中には八戸藩に仕えた者としては、正吉の子・典膳正良と正親の子・伝左衛門吉正の二人しか出ていませんが、正良の兄に「弥治右衛門」という人物がいますので、これが文化五年の武鑑に出ている「中里弥次右衛門」の先祖ではないでしょうか?
また、『三百藩藩主人名事典』の「南部直房」の項に、直房を暗殺した刺客・石原関之助を討ち取った人物として「中里弥次右衛門」が出ていますが、これは正吉の子の弥次右衛門の息子でしょうか?
『三百藩家臣人名事典』を見てみたら「中里郷右衛門」が出ていました。彼は借金により悪化した藩財政を好転させましたが、文化6年商人と結び不正を犯した廉で家老職を罷免、閉門蟄居を命ぜられたそうです。また、中里弥次右衛門も一緒に罷免され、禄高半減の処分を受けたとのことです。
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コメント
梶内ではなく、栃内金右衛門ですよ。
栃内氏は、3代藩主の生母の近親で、直房(中里直好)の異母実兄の重信の側室です。
また、支藩とするのは無理があると思われます。
投稿: 通りすがり | 2017年2月 2日 (木) 09時35分
一部訂正します。
金右衛門は3代藩主・通信の生母近親で、同生母は直房(中里直好)の異母実兄の重信の側室です。
中里氏は、元は板垣を称し(一説には小笠原)、甲斐国から従った21人の1人の子孫家と伝え、嘉兵衛正吉の実父河内(こうち)正徳は主君南部信直の命で武田を称し、後に願って中里(なかざと)を称します。
八戸藩内では、中里三家(弥次右衛門家、清左衛門家、市太夫家)のみ「なかざと」と称し、ほかは「なかさと」と称してました。
市太夫家は、弥次右衛門家の特別な別家です。
投稿: 通りすがり | 2017年2月 2日 (木) 09時53分
>通りすがり様
コメントありがとうございます。この記事はもう20年近く前に私がパソコン通信(NIFTY-SERVE)をしていた頃に、書き込んだものを掲載しているものなので、間違い等についてご教示して下さるのは大変助かります。
それで「NIFTYの遺産(53)~南部家の重臣・八戸家」にあるように、武鑑をもとに各大名家の重臣を紹介した方がいたので、それに対して私が付けたコメントが元ネタです。ですから「支藩」の部分は元記事にあったものをそのまま引用したものです。
八戸藩は南部重直が没した後に、将軍の命で重信(盛岡藩)・直房(八戸藩)の兄弟に配分されて成立したものなので、独立した藩であったという理解で宜しいでしょうか?
投稿: KUBO | 2017年2月 5日 (日) 17時52分
以前、コメントを書いた者です。
そのすぐ後にお返事をくださったことにも気づかず、今頃になって気づき、お恥ずかしい次第で、本当に申し訳ございません。
私は、八戸南部家をこのように考えております。
八戸南部家は盛岡とは別に領地朱印状を受けているので、盛岡南部家が自由に大名にしたりまた除封できる(将軍に願ったうえでですが)分知大名ではなく別朱印分家の位置にある、盛岡南部家が願ったわけではなく前当主が将軍に後継選定を依頼し,その将軍の意向で誕生した経緯がある、八戸南部家には, 当初 将軍は家を2つにせよとの意向を示し,老中の段階で重信側が意見を出し現在伝わるような形になったとの伝承があるらしい ので、家が2つになったと考えてます。
また、八戸城下近くのいわゆる南部 一の宮の櫛引八幡宮をいかような交換とでも応じるので盛岡領としたいとの重信の意向があり、それならば志和四ヵ村との交換を願いたいと直房側が交渉したとの伝承も八戸南部家にはあるらしいので、それも併せて考えてみました。
ということで、八戸藩は独立した藩と考えます。
すぐにお返事をくださったのに、4年も経過してのお返事、本当に申し訳ございません。
投稿: 通りすがり | 2021年3月24日 (水) 16時17分
>通りすがり様
こちらこそお返事頂きありがとうございます。八戸藩の成立経緯はおっしゃるとおりで、江戸後期の盛岡藩主利敬も「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示しているようですね。
改めて解説して頂きありがとうございました。
投稿: KUBO | 2021年3月24日 (水) 21時22分
丁寧なお返事を早速に、本当にありがとうございます。
利敬もそのように話したようですね。
それにしてもKUBO様、お詳しいですね。
もしお差し支えなければ、メールなりでお話しませんか?
その場合には、メールアドレス宛にメールを下さいませ。
投稿: 通りすがり | 2021年3月25日 (木) 19時30分
>通りすがり様
私は系図は専門ですが、南部家にそれほど詳しいわけではありません。利敬の話はwikipediaの受け売りです(^^;)
投稿: KUBO | 2021年3月26日 (金) 21時21分
そうでしたか!
了解いたしました。
KUBO様は系図がご専門なのですね。
錯綜し複数の系図がある南部氏の中世は恰好の研究対象かもしれませんね。
南部氏は、中里氏もそうなのですが、四天王と呼ばれた4氏の1つ奥瀬氏の広がりなども驚くほどです。盛岡の家老から軽米の豪農、家老 北 氏の家臣と、一族の広がりは相当なものてす。
ご参考になれば幸いてす。
投稿: 通りすがり | 2021年3月27日 (土) 00時42分
武田源一と申します。八戸南部中里家と同じ旧岩泉町中里村出身(甲斐武田家より落ち延び19代目)です。現在東京都大田区に住んでおります。初代は武田信徳(時)と伝わって(元禄大火で鎧蔵、昭和36年フェーン大火で旧屋敷焼失、墓石も焼け崩れ、ほぼ判別不能)おります。唯一の手掛かりは代々伝わった家宝の銘刀「長船初代宗光ー天正元年吉日」ですが、
17代武田源吾が1929年の世界恐慌の際、八戸で事業失敗し泣く泣く手放し(買い主は当時山梨県より中里村に水晶開発で来ていた社長ー宗さんと聞いております。)ております。
言い伝えでは、中里家の姫(娘)が元禄大火の前の我が屋敷で一時育ったと聞いております。
先祖からの申し渡しですが、甲斐武田家の滅亡の際、旧甲斐源氏南部家を頼り中里村に落ち延びた、と伝わっております。
先祖供養の為にも私の代で何らかかの手掛かりを見つけ様と模索しております。
改めて皆さまのご協力の程衷心よりお願い申し上げます。
投稿: 武田源一 | 2023年1月27日 (金) 00時44分