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シンポジウム「景観史から見た立岩山チャシと上川アイヌの文化」に参加して

 先日の日曜日、タイトルのシンポジウムに参加してきました。うちの坊主くんが例によって「道の駅に行きたい!」というので、午前中は剣淵の道の駅「絵本の里けんぶち」まで行ってきました。道央道を使うと、うちから2時間くらいで着きました。これなら、今度来る時には、名寄や美深・幌加内の道の駅に行って、チャシ巡りもしてくることができそうです。「絵本の里けんぶち」はその名の通り、絵本を読むことのできるコーナーもありますし、絵本自体も売っていました。特産品はもちろん焼きたてパンがおいしそうだったので買ってきてしまいました(^^;) ちょっと寒かったのが難点ですが…

 そのあと南下し、東海大学旭川キャンパスへ。昼食を食べ終わっても、シンポジウムまでちょっと時間があったので立岩山チャシを見に行きました。(うちの坊主くんも「行く!」といってついてきましたが(^^;))
Tateiwayama01Tateiwayama02 4年ぶりですが、チャシの辺りは少し草が伸びていましたが、定期的に草刈がされているようで見学するには支障ありませんでした。壕や土塁を見ていると、今回のシンポジウムのコーディネータである東海大学の北條先生が声をかけてくれて、発掘した際に柵囲いの現物が出たことやそれが焼かれて炭化していた等々詳しく説明して下さいました。お礼を言って車に戻り、荷物を持って今度は玄関ホールで行っている展示を見に行きました。数年前に行われた発掘の様子がパネルで紹介されていて、炭化した柵の現物や、その模型も展示されていました。
 そのあと2階のシンポジウム会場へと向かいました。参加者は20名くらいだったでしょうか。シンポジウムは、初めに数年前の発掘に実際に携わった永谷幸人さん(伊達市噴火湾研究所)の「チャシはなぜつくられ、柵は燃やされることになったのか?」という発表で、そのあと旭川市博物館の瀬川拓郎さんが「上川盆地の景観史」というテーマで発表されました。私の記憶とメモでその発表の概略をまとめたいと思います。どちらもなかなか興味深い発表でした。

◎発表1:「チャシはなぜつくられ、柵は燃やされることになったのか?」(永谷幸人さん)
 ・チャシの壕や土塁の造営には多くの労力が必要で、おそらくコタン総出での作業だったのではないか。
 ・発掘の結果、縄文時代の竪穴住居の跡は3ヶ所あったが、アイヌ文化期の建物跡などはなく、遺物等も出土しなかった。チャシ内部も緩やかな坂になっており、削平など手が加えられた形跡はない。
 ・出土した柵列は堅牢なものだが、石狩川の側にはなく直接視認できない。隠されているよう。
 ・チャシが築かれた時期は、「小氷期」といわれる寒冷期で世情が不安定な時期だった。本州では戦国時代で、乱取りといわれる収奪も行われ、村の裏山に避難場所として「村要害(むらよふがい)」といわれる物を用意していた。立岩山チャシは、アイヌ版「むらようがい」であり、集団成員のよりどころ・地域集団の紐帯・排他性の象徴だったのではないか。
Tateiwayama05 ・戦闘が行われた痕跡がないので、チャシの柵列は戦闘によって燃やされたのではない。しかし、柵列だけではなく、接する土が焼けるほど徹底的に燃やされていることから、過失によって燃えたのではなく、チャシの造営者によって意図的に燃やされたのではないか。
Tateiwayama04 ・このチャシには、北見アイヌとの闘争伝承があるが、のちにはその抗争相手と婚姻関係を結んでいる。また、壕の端には燃えた柵列の炭化材や焼土を埋めて造られた陸橋状のスロープが造られている。これは排他性の象徴である柵列を燃やすことで、敵対者との緊張関係を解消し、スロープを造ることで排他的な存在から開放された存在となったことをしめしているのではないか。このチャシは排他性を示すモニュメントから友好関係・交流関係を示すモニュメントへと変化していったのではないか。

◎発表2:「上川盆地の景観史」(瀬川拓郎さん)
 ・上川アイヌには3つの集団(A石狩川上流グループ、B石狩川下流グループ、C忠別川グループ)があり、各グループ間での婚姻関係はなく、Aは天塩アイヌと、Bは北見アイヌと、Cは十勝アイヌと婚姻関係を結んでいた。
 ・これはサケの産卵場所に関わって集団を造っていたもので、チャシも各集団ごとに持っていた。(Aは突哨山チャシ、Bは嵐山チャシ・オトゥイパウシチャシ・立岩山チャシ、Cは忠別川右岸チャシ、立岩山はCの可能性も)
 ・上川アイヌはサケを和人との交易商品として生活していたので、川に近い低位段丘面に集落を造っていた。
 ・開拓期以降は、入植した和人は耕作に適した中位段丘面に住み、標高の高い高位段丘面は天皇の住まう離宮を建設しようとしたり(中止となった)、この地域の中心的な神社である上川神社を移したり、天皇や神の聖域(?)としていた。川に近い低位段丘面はアイヌへの給与地としたりするなど、開発がなかなか進まなかった。
 ・一方、縄文期の集落を調べると、狩猟採集の生活にあわせ、川の近くや森の近くなど多様な場所に住んでいた。縄文期には富良野方面にも村があったが、アイヌ期になるとサケが捕れないため村がなくなっている。
 ・以上をまとめると
   縄文期→狩猟採集民が中心の生活。生活の場は森。多様性を示す。
   アイヌ期→サケを交易商品とした漁民・交易民としての生活。生活の場は川。一様姓を示す。
   近代→農耕民が中心の生活。生活の場は平坦地。高位段丘面・中位段丘面・低位段丘面と階層性を示す。

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